暗闇の中で、室外機の音がカラカラと鳴っている。
昔勤めていた会社の喫煙所は屋外にあり、夜には真っ暗になる。1つだけある黄色い光で、灰皿の下だけがぼーっと照らされていた。
そこで一人佇み煙草を吸う小笠原さんは、そんな光に映し出されているようだった。
「お疲れ様です」
挨拶をして、光の中で火を点ける。
「おう、お疲れ」
小笠原さんはジ・おじさんみたいな風貌の先輩社員で、年が離れている僕ら若手にも気さくに接してくれる人だった。
「お前顔が疲れてるな、温泉とか行ってこいよ」
「いやー休みとれないですよ」
まだこれから残業がある。他愛もない話をしながら終業までの最後の一服を、大事そうに吸う。
「俺は先週行ったぞ、良かった。栃木の混浴温泉だ」
「へえ」
「なんと混浴温泉に行ったらな、女がいたんだよ」
何その猫カフェに行ったら猫がいたみたいな話はと思ったのだが、そんな単純なものではないらしい。
なんていうか普通に、そりゃそうなんだけど女性、それも若い女性は少ないらしい。
「まあ来なかったら来なかったでな、長く温泉に浸かるだけで癒されるからな。旅行と変わらん、いい趣味だよ」
「何時間くらい浸かるんですか?」
「今日はもう来ないなってなるまでだよ。でっかい水筒持ってな。まあ、修行みたいなもんだ」
なんでそんな行為を良いように言えるんだ。
小笠原さんがよくいく栃木の秘湯は、「ワニ」と呼ばれる行為もガンガン横行しているようだった。
「ワニ」とは、女性を待つおじさんたちが湯船から顔だけ出して動かない様子のことだ。
しっかりマナー違反らしく、温泉のマナー講師をやってる女性がテレビで怒っていたから知ってる。
「俺はワニ会にも入ってるからな」
「なんですか、ワニ会って」
「ワニ同士が連携プレーするために、一緒に混浴行くんだよ」
温泉のマナー講師が聞いたら怒り狂いそうな言葉だ。
「ほら、場合によっては何手かに分かれてグループLINEで情報共有をしたりな」
怖っ。
「それ、女の子来なかったらどうするんですか」
「虚しいよ。仲良くもないし。自分より年上のワニとか来ると引くし」
めちゃくちゃじゃないか。
「二手に分かれたとして、女性が来たら『こっちに来たぞ!』とか言うんですか? 間に合わなくないですか」
「間に合わないかもしれないけど、ちゃんと言う。それは掟だから」
「掟があるんですか?」
「ああ、独り占めは許されない。会の出入りも禁じられる。隠し事は組織にとってよくない」
「だいぶ怖いですね、組織として統率されてるワニ」
このセリフを言ってハッと思い出した。
俺は昔、このセリフを言ったことがある。
***
「どうして、どういう理由で混浴に入るんですか?」
純粋な好奇心で聞いたことがある。男でも女でも、自分が周囲の男性から性的な目で見られる温泉に入るだろうか。
理由の見当もつかない。だから目の前の女性が混浴風呂に行くという話を聞いて、ビックリして聞いてしまった。
「女湯が無理なんだよ~」
居酒屋でミキさんはそう言っていた。
「女同士で旅行行っても、私湯船には入らないし」
そういう人もいると聞いたことがある。僕の叔母もそうらしくて、よく母が愚痴っていた。
「でも大きいお風呂は大好き……だからもう、混浴しかなくない?」
「そんなことなくないですか、多くのおじさんの後ですよ。女性だって入ってますよ」
「女湯よりはマシでしょ」
「一回冷静になりましょうよ」
「ほら、私ライブチャットやってるから見られるのとか抵抗ないし」
「そうか……そうか?」
「あんまり行って無いけどね。あ、でも前に不思議なことがあった」
「なんです?」
「栃木の温泉で3人くらい先客がいて、まあ普通に入ったのよ。で、話しかけてきたから適当に流してて」
「はい」
「そしたら、なんか後から10人くらいやってきたの!」
「え、なんでですか!?」
「わからない! たまたまじゃないと思う。なんかグループがあるのかも」
「だいぶ怖いですね、組織として統率されてるワニ」
「で、温泉出たら下着が無くなってて」
「それはもう集団犯罪じゃん」
「キレて周りに問いただしたけど誰も犯人いなくて!神様か?って思ってたんだけど」
「嫌でしょその神様」
「後日ライブチャットしてたら『パンツありがとうございました。』って書きこまれた」
この話がめっちゃ面白かったからよく覚えている。まさか就職してワニ側の人間とも知り合えるなんて思わなかったよ。
「なんか他に面白いエピソードあったら知りたい」
「今も私の鉄板ネタだけど、風俗やってた時に、ブース入ったらめっちゃキモいこと言われたことあって」
「それは……」
この人とは色んな話をした気がするが、この温泉のエピソードだけをやけに強く覚えていた。
***
小笠原さんがブホッと煙を吐いた。
「それ、栃木の××温泉?」
「あーどうだったかな……でもそんな名前だったような……」
「だとしたら、俺その人に会ってるかもな」
「え、4年くらい前ですよ」
「全然、むしろ現役バリバリだよ」
「現役とかあるんですね」
「引退もあるぞ。人はいつまでも現役ではいられないものだ」
この人と話すと、たまに何の話をしてるかわからなくなる。ワニだ。ワニの話なんだ。
「そのお話の通り、『女が来た!』みたいに送ったらそこにゾロゾロ来るんですか?」
「ゾロゾロ来るよ」
ゾロゾロ来るんだ。
「シーズンとかだと狭い風呂にも20人くらい来るよ」
「めっちゃ怖い」
「お前もストレス発散みつけろよ。俺は今日風俗に行く」
「仕事、疲れないんですか?」
「そんな疲れなんて吹き飛ぶよ。今日は人気のアヤ様の予約が取れたからな、そんで週末はワニ旅行だ。」
「なんと言うか……すごいですね」
そうとしか言えなかった。こんなに欲望に明るくて真っすぐなおじさんを僕は知らない。
感情としては本当にこれだけ、「すごいなあ」としか思わなかった。皮肉を含めたつもりもない。
「うーん……」
それを受けた小笠原さんは少し難しい顔をした。
もしかしたら少し雑に発言してしまったのかもしれない。ナメてる?とか思われたかもしれない。まあ別にいいんだけど、違うよって伝えないといけないかなと考えてた時、小笠原さんは口を開いた。
「まあどう生きるかはお前の勝手だから何も言えないけど、
普通に結婚するとかそういう生き方のがいいと思うぞ?」
いや違う違う全然憧れてるとかじゃない。憧れて「すごい」って言ったわけじゃない。
どうやって否定しようかと考えていたら小笠原さんはオフィスに戻ってしまった。
僕はモヤモヤした感情を抱きながら、黄色い光に一人映し出されていた。
カラカラとした音と吐き出した煙が、光に吸い込まれていくようだった。
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