カラカラと音がする。換気扇の乾いた音だろうか。
大学1年生の冬、ランチとは思えないほどに薄暗い中華料理屋の店内で、黄色い光の下で箸を進めていた。
彼女と別れて傷心中の友人、下沼と2人でのランチは、どこか重い空気もあった。
映画サークルに所属してる僕らは話し合いのためによく一緒にランチをしていた。
大学近くにはろくな飲食店が無く、ここの麻婆豆腐は信じられないくらいヌルかった。
文句を言いながら食べていると、彼女に「身体つきが気持ち悪い」と言われフラれた下沼が口を開いた。
「なんか寂しくて眠れない日とかあるんだよね」
気持ちはわからなくもない。失恋でもなんでも、ストレスが睡眠を妨げる日はある。
「なんかいい気分転換でもあればいいんだけど、今は新しい出会いとかに興味なくて」
失恋したばかりの下沼のダメージは結構深そうで、俺も言葉を選びながら返答していた。
「大好きなカラオケも全然ストレス発散にならなくて……やっぱり、思いつくのは1つだけなんだ」
出会いや好きな趣味で発散されないなら、もう時間以外の解決方法が見当たらなかったが、彼は何か目星がついているようだった。
「風俗って、行ったことある?」
あー長かった。なんで俺にこんなに保険張って喋るんだよコイツ。自分で判断しろよ。
「行ったことないわ」
「まじかー、マキヤは地元千葉だから行ってるかなと思ってた」
「千葉ぜんぜんそんなことないけど、いいんじゃない、気が紛れるなら」
「なんか怖いイメージあるんだよ。あ、でも行ったらそうでもないみたいな話も聞くけど。やっぱ最初はライトな手こきとかピンサロとかのがいいんかね? デリヘルは家の場所知られるからやめといたほうがいいかね? どう思う? まあ経験としてはありだよね。何か映画とかにも使えるかもしれないし、一回も風俗行ったことない男って逆に信用出来ないみたいなとこあるしな」
すごく喋る。身振り手振りとかすごいしてくる。俺の返答を待たずにグイグイ進めてくる。
「いや、もう、行ってこいよ」
下沼の顔がパアッと明るくなる
「マジか、なんか、背中押された気分だわ」
なんでだよ。罠じゃん。お前が押せって言葉を使わずに言ったんじゃん。
大学に戻り、授業に行ったら下沼が先輩と喋っていて、
「マキヤに『風俗行くべし』って言われたんで行ってきますわ」
みたいな報告してたからいつかぶっ殺そうと思った。
帰って携帯を見たら、
「とりあえずライトそうなやつ行ってみる!」
ってメッセージがバナナの絵文字と共に来ていた。よくそんなことが出来るなと思った。
あとそれが原因だと思うんだけど俺は風邪を引いて一週間くらい大学を休んだ。
***
久々に大学に行くと、下沼がすごく微笑んできた。
俺がまだコートとかかけてない段階でバッと近づいてきてこう言った。
「いやーハマっちゃいそうだわ。SMクラブ」
なんでだよ。すげえハードなの行ってるじゃん。全然ライトじゃないじゃん。
「え?ライトなやつは?」
「色々調べた結果、ここしかなくて」
「そんなわけねえだろ、池袋だぞ」
「でもマジで、レイカ様は最高だった」
「調教されるにしても早くない? 俺そんな休んでた?」
「行ったの1回だけだよ!」
「1回でそんななるの?」
「でも今日からマキヤが大学来るって聞いたから、今日の予約取ったんだ」
「なんで? なんで俺の体調とお前の風俗がリンクするの?」
「いやー楽しみだなー!」
そして夕方ごろ、下沼はうやうやしく夜の街へ消えていった。
失恋であんなにヘコんでた人間を1日で全回復させるSMってすごいなと思った。
***
数週間たった頃、下沼はマズいパスタ屋で深刻そうな顔をこちらに向けた。
「もう、レイカ様に会えない……」
「え? なんで?」
「わかりやすく言うと、『運命』、ってやつ」
「わかりやすく言ってくれ」
「実は、レイカ様は……」
「うん」
「本当は大阪の人で、たまたまこっちのお店にいただけなんだ。もう帰っちゃったみたい」
「そうか残念だったな」
コートをかけて、PCを起動した。
「聞いてよ!」
「いや、もうこれ以上ないだろ。何が運命だよ」
「俺は一晩中、ありとあらゆる方法で調べて、レイカ様のいる大阪の店をようやく特定したんだ。系列店だった」
「系列店はそんなに調べなくても辿り着くだろ」
「だから、今週末、大阪行ってくる」
正気か?
「マジで?」
「もう出勤スケジュールも確認済で、チケットもとった」
「いいなーたこ焼きとか」
「食べるけどさ」
知らないうちに下沼の中で、レイカ様は生きがいみたいになっていた。
飛行機のチケットやお店のHPを何度も俺に見せたり、キャリーケース選びに付き合わされたりした。
俺がこういうの全部応じるからいけないんだろうなとも思った。
***
翌週、大学に行くと、下沼が話しかけもしてこない。我慢できずに俺からいってしまった。
「大阪どうだったん」
こっちを向いた下沼は、信じられないくらいゲッソリした顔をしていた。
「ハハ……会えませんでしたよ」
「え? 出勤情報みたいなの見てたじゃん」
「当日さ、大阪で、店に行く前にHP見たら、出勤なしになってて……」
「マジか……大阪まで行ったのにな……」
「なーんか、すれ違ってばっかりですわ……」
コイツが一方的に行ってるだけだからすれ違ってはいないと思う。
「で、大阪のSMは行ったの?」
「店に行く気なんてなれねえよ、ちょっと観光して東京帰ってきたよ」
「そっか……」
「で、昨日は東京のお店でさ」
「うん?」
「アヤ様も良かったけど、まだ新人さんだからいろいろ甘くて……やっぱレイカ様じゃないと……」
いってるじゃねえか。ちょっと調教されてきてるじゃねえか。
***
春になり、進級した。
僕は学食で後輩たちにサークルの説明をしながら、一緒にトランプをしていた。
急にドタドタと下沼がやってきて、大きな声が学食に響く。
「マキヤ!! レイカ女王様が帰ってきてる! あの! SMクラブの!」
俺は関係ないんだから大声で巻き込まないでほしい。
「ほら! 出勤情報!」
「いや、うん、行ってきなよ。あとこの子たちにサークルの説明を……」
「いやちょっと後でな!予約取るから!」
下沼は忙しそうに去っていった。何しに来たんだ。後輩たちはサークルに入ってくれなかった。
***
辛すぎるカレー屋で、下沼は汗を垂らしながら真面目な顔で口を開いた。
「ずっと自分をMだと思ってたんだけど、わからなくなってきた」
知らねえよ。
「SMクラブ通って女王様とか言ってる人はMだろ」
「いや、なんか、俺も毎月給料入ったら、すぐ予約してさ、レイカ様に言葉責めされてムチで叩かれるのが好きで行ってたんだけどさ」
「Mだよ」
「叩かれながら、『痛いから嫌だな』と思ってる自分もいるんだ」
なんで行ってるんだ。
「予約して、お店の前について、『今から叩かれるのか……嫌だな……』って思いながら入るんだ」
「行くなよもう、そんな奴レイカ様も嫌だろ」
「わかんない……わかんないんだよ……どうしたらいいんだ……」
なんでこいつ葛藤してるんだよ。
人間は多くの場合において、「SとMの両方を持つ人」と「中立」の2種類だと聞いたことがある。
自覚している性癖が、よく考えたらどちらでも無かったりするものなのかもしれない。
だとしたらSMクラブに行く前に気づいて欲しかったが、そこまでしてようやく分かることもあるのだろう。
「どっちなんだ……俺は……また来月叩かれるのか……嫌だ……」
うわ言のようにつぶやく男を、僕は見守ることしかできなかった。なんでその状態で来月の予約を入れたんだ。
***
いつもの薄暗い中華料理屋に来た。今日はえびチャーハンにえびが入ってないという離れ業をやられて、僕のテンションも普段より低い。
「昨日、SMクラブで確信した。俺はMじゃない。もうSMクラブに行くことはないだろう」
「よかったよそれなら」
「ムチで叩かれるのは痛いし嫌なんだけど、ある程度の快感もあった。だから通っていた」
「うん」
「でも途中で気付いたのは、俺はムチじゃなく、その時の責められる言葉が快感だったんだ」
「なるほど」
「そして昨日、言葉も違うと気づいた。責められたセリフに、違和感しかなかったんだ」
「なんて言われたんだ?」
下沼はムチを振るうようなモーションをしながらこう言った。
「『お前は給料日後しか来ねえな!』バチン!
ってやられたんだけど、それは違くないか?」
女王であるレイカ様も、本当はSではないのかもしれない。
吹っ切れた顔で「ライトなやつ言ってみようかな」とワクワク語る男を、黄色い光が照らす。
換気扇の音がずっと、カラカラと響いていた。
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